3/23/2011

東北地方太平洋沖地震

東北地方太平洋沖地震
で被災された皆様、本当にがんばってください!!!!


地震がおきた時、ここ関西でも感じるほどの揺れ、そして連日の報道にあまりにもショックが大きく、Blogに書くべきか悩んでいました。


実は、僕の妻は「阪神大震災」の時に祖母に守られ命を取り留めました。
彼女は「神戸市東灘区」で被災したのです。
僕も西宮市で被災しましたが、彼女の思いに比べると・・・・・


震災10年目(正確には9年11ヶ月)に僕との結婚式でその思いを彼女の両親に話していた事、また耐え難い苦しみがあったことを知りました。


ですが、今では2人の息子にも恵まれ、町も復興し
彼女自身も中学生だった「あのころ」よりも強くなっているように思います。(出会った後からしか知りませんが・・・・)


だからというのはおかしいかも知れませんが、震災に遭われた皆さん、心よりがんばってください。
「がんばってください」は無責任かも知れませんが、それ以外の言葉が出てこない自分をお許しください。


最後にへたくそで、幼稚な文章をお許しください。
僕も中学生から大人になり、親になりいろいろ感じ、心がパンクしそうになりました。


下の記事は僕達の1ページです。
震災から守ってくれた祖母、形見の指輪に結婚報告

祖母の遺影を前に幸せそうなめぐみさんと了志さん。指に形見の指輪が光る  
阪神大震災で祖母を失った神戸市東灘区の介護福祉士広瀬めぐみさん(25)が
21日、祖父母と同じ生田神社(中央区)で結婚式を挙げる。
めぐみさんに覆いかぶさり、崩れ落ちた天井から命を守ってくれた祖母。
救出までの4時間、がれきの暗闇で抱き合い、
手が、ほおが冷たくなっていくのを感じた。
〈あの日〉から間もなく10年。生き残った自分を責め続けた日々を
支えてくれたのは、家族や大切な人だった。
ずっと指につけている形見の指輪に心から報告できる。
「生きてて、ほんまに幸せ」、と。
当時、中学3年生だっためぐみさんは、受験勉強のため、
東灘区内の木造アパートの1階で暮らしていた
祖母石原文子さん(当時72歳)宅に寝泊まりしていた。
並んで就寝中、激震が襲った。
めぐみさんの布団の上に文子さんが覆いかぶさった直後、
屋根や梁(はり)が崩れ落ちてきた。
めぐみさんは、文子さんの頭を抱えるようにして下敷きになった。
「めぐ!」「おばあちゃん!」。真っ暗闇の中で何度も呼び合った。
痛みに耐えられず、文子さんの頭部に回した右腕をずらした瞬間、
がれきがのしかかってきた。
体が急に重くなり、声が聞こえなくなった。
文子さんの手をたぐり寄せ、自分のほおに触れさせると、
ふっくらとした手のひらが、冷たくなっていた。
約4時間後、差し込んだ光に文子さんの顔が照らし出された。
ほっとしたような、安らかな表情だった。

家族らに救出されためぐみさんも両足がマヒする大けが。
「切断せなあかんかも」。医師が母に告げる声が漏れ聞こえたが、
なぜか冷静だった。
「何で自分だけ生きてるんやろ。おばあちゃんに会いたい」。
死んだら会えるかな。暗くなると眠れず、誰にも明かせない気持ちを、
病院のベッドでノートに書きつづった。

「私が死なせたんや」。
家族にあたったこともあった。
父隆作さん(58)は「めぐの無事が何よりの望みやったはずや」と諭し、
家族や友達は「生きててくれてありがとう」と涙を浮かべた。
その言葉に励まされ、懸命のリハビリで半年後に再び歩けるようになった。

高校2年の時、介護福祉士の仕事を知った。
文子さんに、何もしてあげられなかった。
「恩返しのつもりで、お年寄りのお世話をしよう」。
専門学校に通って資格を取得。
現在は、震災復興住宅の生活援助員として、
独り暮らしのお年寄りらを訪ねる日々を送る。

5年前、同じ介護福祉士の富田了志さん(25)と出会い、
優しさにひかれた。
祖父母が結ばれた生田神社での挙式に、了志さんも賛成してくれた。

式では、両親に贈る言葉の中で、
今まで心の奥底に秘めてきた思いを、
初めて家族に打ち明けようと考えている。
がれきの中での出来事。
自らを責め続けた10年。
そして今、ようやくこれからの自分を見つめられるようになったこと、を。
「ありがとう」。
涙がこぼれそうで言葉にならなかった気持ちを、伝えたい。

あの日、文子さんの右手薬指で輝いていた指輪も身につけて式に臨む。
「『めぐ、笑ってるね。楽しんでるね』。
天国で、そう思ってくれるような人生を歩むからね」。
包み込むようなまなざしの遺影に、
そっと、ほほ笑みかけた。



彼女の体験で皆さんに少しでも勇気をと思い本名を出して投稿致します。

0 件のコメント:

コメントを投稿